トップページ > 会社概要 > 花園万頭の歴史

花園万頭の歴史


明治39年

明治39年イメージ

花園万頭の源流はお茶所としてまた銘菓の本場として名高い加賀前田家の城下金沢に天保5年に創業した石川屋本舗にあります。明治39年、その3代目として世に出た石川弥一郎がひと際優れた進取の気性を発揮して、東京に進出したことによって今日の花園万頭の礎が築かれる事になったのです。




昭和初期

昭和初期イメージ

東京への進出は青山に最初の店を構える事に始まりました。その後、赤坂への移転を経て、事業も軌道に乗りましたが、昭和4年に工場の出火が原因で店も工場も灰燼に帰してしまいました。しかし、この大きな困難を持ち前の負けじ魂で撥ね退けた弥一郎は、翌昭和5年には現在の本店所在地である新宿三光町に店を移し、近隣にある新宿の鎮守「花園神社」の名と、「万頭と共に寝て、万頭と共に起きよ」(これは「人寝静まる夜半、枕元に万頭を並べて精神状態の穏やかな状態で万頭を食すとその味の良否を見極めることが出来る」という事)を自ら実践し、試行錯誤の末に完成させた万頭の名に因み、屋号を「花園万頭」に改めました。




現在

現在イメージ

自ら「甘味口に媚びるという境地」と説明していた「花園万頭」は他の店の万頭よりも外皮が柔らかで、中身の餡にもしっかりと吟味が加えられ、皮と餡の調和に優り、今日でも良く知られる「日本一高い、日本一うまい」という奇抜な発想から生まれたキャッチコピーの浸透と相まって好評を博しました。出火からの復興である事を忘れさせる程、社業は順調な歩みを見せていましたが、更に大きな困難が行く手を阻むことになります。大戦の戦火により再び店も工場も荒廃の焼け跡と化してしまったのです。


昭和23年12月、この時弥一郎は、既に73の歳を数えていましたが、手元に残った5号の炊飯釜と僅かの小豆、進駐軍放出の小袋入りグラニュー糖、そして1kgの粉を頼りに再復興の第一歩を印すべく立ち上がります。この時弥一郎を突き動かしたのは負けじ魂は勿論、「至上の味でお客様に奉仕する」という今に受け継がれる揺ぎ無い信念であり、その信念は、翌24年、花園万頭に並ぶ代表銘菓として、現在に於いても他に類の無い銘菓として確固たる地位を築いている「ぬれ甘なつと」の誕生として結実するのです。




東京・新宿 花園万頭